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1. ユカタン半島に移動するマングローブの林あり 2.メリダの謎、ベルサイユ風宮殿 ここにあり!
3.地球の聖地、モナルカ蝶のミチョアカン 4.メキシコ市内観光とテオティワカン
5.タイルの家の物語その1、その2 6.タイルの家の物語その3、その4
5.タイルの家の物語その5、その6 6.タイルの家の物語 最終章
9. カリブを変えた砂糖、コーヒー、紅茶
 

タイルの家の物語

【 〜その1〜 】

レストラン・サンボーンズの本店は別名「タイルの家」と呼ばれ、メキシコ市の中心部ソカロの近くにある。その名の示すとおり建物一面がタイルで覆われている。「ラテンアメリカで最も美しい建物の一つ」と言われる、この建物がタイル貼りの現在の姿になったのは、1700年代初期であるから、もう、300年近く、風雨に耐え、無数の人々の往来、交通に耐えてきたことになる。 外観の優雅さも、さることながら、建物の内部は訪れる人々をバロック美の世界に誘い込む。

古い建造物同様に、この「タイルの家」も石造りであるが、訪問客に冷たい感じを与えず、やさしく優美であるのは、灰色の石肌をむきだしのままにしなかったことにあるらしい。淡青と白色のタイルや、レリーフされた木扉、壁一面に描かれた孔雀の遊ぶ宮庭園、それに、石柱にまでレースのような浮き彫りをほどこして、冷たさを優しさに変えている。
「タイルの家」の建築様式を正確に言えば、バロック後期の「チュルゲレスコ」ということになる。チュルゲレスコは一般に装飾過剰で、悪趣味にさえなってしまうのだが、そうならず品よくまとまっているのは、この館の主であり、再建を手懸けた伯爵夫人の趣味の良さであろうか。時には、一杯のコーヒーを楽しみながら、束の間の伯爵夫人の気分になるのも悪くない。 「タイルの家」は、正にメキシコの誇る文化遺産である。それにもかかわらず、日本の迎賓館のように特別な階級のためだけの建物にならず、誰でも入れるレストラン・サンボーンズになっているのは不思議な事ではないだろうか。
この謎は、300年以上続いた伯爵家の歴史と、アメリカ人サンボーン兄弟との関係を知ることで解けるようである。
ちなみに、この館の始めの日本人訪問者は伊達藩の支倉常長であった、と聞く。

【 〜その2〜 】

1614年の3月下旬、支倉常長の遣欧使節団は、メキシコ市に入り、現在、ザンボーンズになっている「タイルの家」に滞在した、という。「タイルの家」は私邸であり、持主は約300年に渡るスペイン植民地時代を通し、最も古く富裕な家系の一つのビベロ伯爵家であった。 なぜ、常長一行はビベロ伯爵の私邸に宿泊することになったのであろうか。又、なぜ、ラテン・アメリカの他の国でなく、メキシコに来たのであろうか。
それは、ビベロ家を「伯爵家」にならしめた初代のロドリゴ・デ・ビベロが千葉県御宿沖に漂着したことに由来する。ロドリゴ・デ・ビベロは当時、スペイン領であったフィリピン総督であり、「任務を果たして、マニラ港よりアカプルコへ向かう途中の1608年9月30日、台風にあい75日間漂流した末、船は難破、船のロープにしがみついて、日本へ漂着した。」と、後日、彼の記した「日本国事情」(筆者訳)にある。「フィリピン」(西語 Filipinas)という国名は、スペインがフィリピンを征服、植民地とした時(1571年)のスペイン王フェリペ二世の名にちなんだことによる。 ここで、スペインの植民地支配について、少し触れてみよう。

コロンブスの“新大陸発見(1492年)”以後、スペインはラテン・アメリカの征服にのりだした。コロンブスは合計4回(1492〜1502年)、キューバを中心に航海しているが、死ぬまでそこをインド近海の諸島だと信じていた。そして最後の航海でたどり着いた中南米海岸を、中国沿岸だと思い込んでいたという。 しかし、“新大陸”であることが確認されるやいなや、コロンブスの息子のディエゴ・コロンブスを初め、多数のスペイン人が征服にのりだした。1500年初頭には、ハイチ、ドミニカ、プエルトリコ等が征服され、1514年キューバ、1521年メキシコ、1535年ペルー、1571年フィリピンが植民地となった。ビベロ伯爵が日本へ漂着した時は、ブラジルを除く、ラテン・アメリカのスペインの支配はすでに完了していた。

スペイン支配は、金銀鉱山の採掘にインディオを狩り出し、奴隷化によって、わずか数年の内に、ハイチ、ドミニカなどの西インド諸島のインディオは、ほぼ絶滅し、サトウキビ栽培のプランテーションが開始されると、労働力として、アフリカから黒人奴隷が“輸入”された。こうして、黒人中心の国々が誕生した。さて、千葉県御宿に漂着したビベロ伯爵の「日本国事情」に話をもどそう。彼は、「自分と共に漂着した日本人キリスト教信者が、我々が日本に着いたことを教えてくれた。彼はここの村人に、私がフィリピン総督で、帰墨の途中台風にあい漂着したと伝えた。」と記している。ビベロ総督一行370人は、手厚くもてなされ、後に徳川家康、秀忠への表敬訪問の旅に出る。彼の道中の記述から、日本の印象を抜粋してみよう。「行く先々で、好意をもって迎えられた。
Los grandes senores(大名のことか)の部屋は木で造られ、金銀や、さまざまな色彩で優雅に飾られていた。また、軍備たるや、王にも勝るもので、とても一貴族のものとは思えないほどであった。Surunga(駿河のこと)に到着する。人口は12万人。住民は外国人の到来に大騒ぎをしていた。天皇様(家康のこと)は奥深く住まわされ、3重の扉が彼を守っていた。その警備の厳重さは、王子様(秀忠のこと)をしのぐほどであった。天皇様は青いビロードの椅子に座り、その左側に全く同じ椅子が私のために用意してあった。天皇様は、青のすべすべした布に、無数の星と、半月の刺繍のある衣をまとい、刀を身近にもっていた。頭には帽子がなく、何の飾りもなかった。髪をきつく結い上げ、色紐で結んであった。天皇様はスペイン王が私にするよう、出来る限りの事をしたいので、何なりと側近に言いつけるように、と言われた。

私は天皇様に感謝し、御手に接吻いたします、と言った。やっとMeako(都、つまり江戸のこと)に着いた。世界にその偉大さで知れわたった所である。都には、ドミニコ修道会とフランシスコ修道会の僧院が3つあった。『フランシスコ修道会』の『はだしの神父会』の家に泊まり、クリスマス・イブに大勢のキリスト教信者がミサに集い、祝うのを見て、感動を隠しきれなかった。Yendo(江戸のこと)には、王子様が国内唯一公認した、フランシスコ修道院がある。仏教の僧侶達が集まり、天皇様にキリスト教修道士を国外追放するように求めた。天皇様は僧侶に、日本国内にいくつの宗教、宗門があるか、尋ねた。僧侶は、35あると答えた。天皇様は、35の宗教、宗門があるならば、36になっても、さしつかえなかろう、住まわせてやれ!とお言い付けになった。」 フィリピン総督ビベロ伯爵と家康の会見は、いよいよ本題に入っていくが、その前に家康はビベロ伯爵に思いもかけない質問を二つした。その一つは、スペイン人のファッションについてであった。

つづく

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