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1. ユカタン半島に移動するマングローブの林あり 2. メリダの謎、ベルサイユ風宮殿 ここにあり!
3.地球の聖地、モナルカ蝶のミチョアカン 4.メキシコ市内観光とテオティワカン
5.タイルの家の物語その1、その2 6.タイルの家の物語その3、その4
7.タイルの家の物語その5、その6 8.タイルの家の物語 最終章
9. カリブを変えた砂糖、コーヒー、紅茶
 

タイルの家の物語

【 〜その5〜 】

前回はなぜビベロ伯爵の報告書の中で「将軍家康」が“Emperador Taikosama” (皇帝・太閤様)になったのかを見てきたが、報告書の中の「不思議」はこれが終りではなかった。

というのは、この文書は当時のスペイン王フェリッペ三世(在位1598‐1621)へではなく、父王ですでに10年以上前に他界しているフェリッペ二世に宛てて書かれているのである。もし「二世」と「三世」が印刷の間違いでなければ、これは「死者への手紙」だったのである。
なぜ、こんなことをしたのか。まさか、伯爵が本国の王位がフェリッペ二世からその子の三世へ移ったことを知らなかったはずはない。とすると、伯爵は、その時の王であるフェリッペ三世をあきらかに無視したのである。そんな事が出来るのであろうか。これには深い訳がありそうである。

まず、伯爵に黙殺されたフェリッペ三世のプロフィールを見てみよう。彼はスペイン王であり、かつ神聖ローマ帝国皇帝のカルロス五世の孫であった。
カルロス皇帝の統治した神聖ローマ帝国は「日の没することなし」と豪語されたほど広大で、北はオランダから南はスペイン、イタリアまでの全ヨーロッパ、それに植民地のラテンアメリカ、フィリピンにまたがっていた。ちなみにメキシコに「カルロス五世」(“CarlosX”)というチョコレートがあり皇帝の雄姿がプリントされている。

皇帝は、神聖ローマ帝国を弟にスペイン、イタリア、オランダと植民地、ラテンアメリカ、フィリピンを息子のフェリッペ二世に譲った。フェリッペ二世もなかなかの人物であったらしいがその息子のフェリッペ三世は、広大な領地を維持できず、プロテスタント化したオランダを失っている。
彼はマドリード発行の「スペイン史」に「無形以上の存在であった」と評されるほど目立たない王であった。帝王学教育をしっかり受けていたらしいが、本人は病弱で、メランコリー、かつ信心深く礼拝堂に引きこもっては、お祈りに明け暮れる毎日であったという。
父王フェリッペ二世は、息子の行く先を心配し、腹心の部下に補佐を頼んで息を引き取った。しかし、父王の死後フェリッペ三世は、この補佐役を退け自分のお気に入りのレルマ公爵を側近とし、かつ、全権を彼に委ねたのであった。「スペイン史」(マドリード発行)によると、レルマ公爵は、金銭欲と名誉欲に長けスペイン国を腐敗へと導くことにかけては有能以上であったが、現実の政治には 無能ぶりを発揮したと書かれている。
公爵により本国経済は悪化、やっとラテンアメリカ植民地からの収入で国政をまかなうほどになっていた。その収入の約半分が、メキシコからのものであった。レルマ公爵の悪政は、スペイン全土の反発を呼び失脚するが、フェリッペ三世も 失望のあまり他界してしまった。王様と言えども、やはり三代目は大変らしい。

一方、父王のフェリッペ二世はカトリック護将の使命感に燃え、イスラム教トルコ軍をレパント海戦で破り、又、プロテスタントの攻撃にも立ち向かって行った人気のある王であった。また、1584年と翌年の二回に渡り、 日本から来た天正少年遣欧使節と会ったのも彼であった。ビベロ伯爵の人生と出生は、この父王フェリッペ二世と共にあった。

報告書を、あえて他界したフェリッペ二世に宛てたのは、レルマ公爵に操られる息子フェリッペ三世を自分の王とは認めない、という気持ちの表われではないだろうか。フェリッペ三世の存在がいかに無形であったかは、二代将軍秀忠の航海許可公式文書がスペイン王フェリッペ三世ではなく、レルマ公爵に出されていることからも理解できる。 ビベロ伯爵が将軍秀忠に、公式文書は王ではなく公爵に出すよう進言したのであろう。もちろん、ビベロ伯爵の心中はさぞ複雑であったろうが、その進言を受けた秀忠はスペイン国をどう見たのであろうか。

【 〜その6〜 】

1608年に日本に漂着したビベロ伯爵「日本事情」が、既に亡きフェリッペ二世へ向けて書かれた「死者への手紙」であったと、前号で書いた。フェリッペ二世が世を去った、1598年9月に太閤秀吉も他界している。

ユーラシア大陸の東端の日本の主権者と、西端の主権者フェリッペ二世の生い立ちはみごとに正反対であった。
フェリッペ二世は「日の没することなき」 神聖ローマ皇帝の息子として生を受け、秀吉は下層農民の出であった。その両者が歴史の偶然により、同年同月に平等に死を受けている。そして秀吉の後には大物家康が続き、フェリッペ二世は「存在価値ゼロ以下」の息子フェリッペ三世が続いた。
奇妙に思うのは「日本国事情」が個人の日記ではなく、公文書でありながら完全にスペイン王フェリッペ三世を無視していることである。 たとえ、彼が無形であったとしても、このようなことが許されるのであろうか。答えは、当時のメキシコとスペイン本国の関係に見出せそうである。

スペインの実権は、無形の王に換わりレルマ公爵が握っていた。公爵という位は 日本の大名に当たる。現に日本も明治維新後、ヨーロッパの華族制にならい、大名を公爵、次に石高の順に、侯爵、伯爵としている。
つまりレルマ公爵は ビベロ伯爵より上位にあった。レルマ公爵の目にふれるであろう公文書で、彼の主人であるスペイン王フェリッペ三世を無視したのである。これを許したのはビベロ伯爵の自信であった。 その自信は、植民地メキシコにいた 当時の貴族の自信でもあった。 つまり、本国スペインは公爵の汚職と無能で、経済が悪化し、メキシコからの仕送りなしには生活できなくなっていた。当然、スペイン国民は公爵に反発しスペイン貴族の信頼は下落した。その一方で新天地メキシコに赴いた貴族は、古く腐敗したスペイン貴族になりかわり本国を支えた。きっと我らこそ、スペイン貴族の本流なりと思ったことであろう。
確かにこの時代の貴族には、歴史に名を残す名君が多い。そして彼達は本国に競うように華麗な館造りにいそしんだ。今、サンボーンズの本店となっている「タイルの家」もその中の一つであった。その頃のヨーロッパ旅行者がメキシコ市を「宮殿の町」と呼んでいたのもうなずける。

ビベロ伯爵の「日本事情」は、まず彼の直接の上司であるメキシコ副王に提出されその後、本国スペインに送られたと思われる。この亡王フェリッペ二世宛の報告書を 受け取った副王は、ビベロ伯爵の勇気をたたえた事であろう。
ちなみにこの副王ベラスコは、ビベロ伯爵の叔父であった。この叔父ベラスコは、メキシコ生まれのスペイン人(Criollo)として、初のメキシコ副王となった人物であり甥のビベロ伯爵もクリオージョ(Criollo)であった。もしかすると、伯爵の報告書はスペイン貴族二世の、スペイン貴族に対する挑戦状ではなかったのか。スペインの貴族一世は、新大陸メキシコに、古い本国では不可能な夢を抱いてやって来た。そして二世は、その夢を確実にし、本国に勝利したのである。 

つづく

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